温故知新。ここでは市電および、かつて運行していた市営バスを含めた市営交通の歴史をご紹介します。
1923年に発生した関東大震災は横須賀市にも甚大な被害を与えました。山と海に囲まれた狭い地勢の横須賀の街を復興するにあたり、市は工業・商業地帯を市内中心に置けば住宅地域を郊外に置く必要性があるとし、それらを結ぶ交通手段として電車の敷設の機運が高まったのです。1925年に市電敷設が議会で承認されると、市電は復興計画の要とされ、その建設は急がれました。しかし、震災後の市当局は水道などの復旧などで市電運営という余裕はなく、財政的にも市電の敷設は不可能だったのです。そこで、民間資本へ条件付きではあるものの、敷設免許を無償で譲渡することにし、それを受け1926年「横須賀電気軌道」が設立されました。
1928年9月、省線横須賀駅から電車本社前(現、交通局前)までの3kmという短い距離ながら、開業を果たしました。運賃は均一6銭で、約8分間隔での運行でした。開業後の経営は昭和恐慌、湘南電鉄の開業、競合バスなどの影響で芳しくありませんでしたが、着々と路線を伸ばしていき、開業から10年後の1938年には総延長が12.9kmへと達しました。
震災復興を後押しした市電でしたが、競合交通機関との乗客争奪には大変苦労しました。当時横須賀電軌が行った乗客誘致策の例として、雑賀屋百貨店で買い物した客へ電車半額券を配布したり、春には衣笠山公園への桜見物を促したほか、女性車掌の登用があげられます。こうしたサービスの結果、横須賀市内の交通手段として横須賀電軌は不動の地位を確立しました。
「横須賀電車路線案内」(1938)
1938年当時の電車の系統図。当時汐入駅は横須賀軍港駅と名乗っていたほか、海軍からの注意事項などが軍都であったことを物語る。
1931年の満州事変から日中戦争を経て、太平洋戦争と戦火が拡大していく中で、横須賀市の海軍施設も拡張、人口も増加の一途を辿って行きました。横須賀電軌の線路もそれと同時に延伸されましたが、競合する乗合自動車の路線も伸ばされ、市内の交通は乱立した状態へとなっていったのです。この頃になると、海軍より省線、湘南電鉄線(現、京浜急行)を除いた市内の交通を一元化するべきだと唱えられてきます。こうして1940年11月、横須賀市が横須賀電軌と市内の乗合自動車を買収する形で横須賀市交通局が誕生したのです。
1941年に太平洋戦争が勃発すると、横須賀は海軍工廠の艦艇建造ラッシュに伴い活況をみせ、市電の需要はますます高まっいきました。それまでの単車ではさばききれず、新型の大型車が次々に投入されていきました。
同じくして半島西部に位置する陸軍の施設への兵員輸送などを目的に、衣笠から路線を延長する計画もありましたが、戦争の激化などから幻のものとなりました。
(以下、調査中)