江戸時代中期から、厄除けの民間信仰を集めていた川崎大師。東海道で二番目の宿場町である川崎は江戸庶民の信仰の場として恰好な場であった。
1899年1月21日、晴れ。午前10時、1両の電車が六郷橋から大師へ向けて走り始めた。距離にして2km、車両は5両、職員は17人。この小さな会社が、京浜電鉄のはじまりだった。
1872年10月14日に新橋~横浜を開通させた官設鉄道は旧東海道よりやや離れた内陸よりに敷設され、長距離客を主たるものとして停車場はとても少なかった。鉄道の利便性が高まってくると、旧東海道沿いの沿線の需要は高まり、さらに政治の中枢である東京と明治維新後の日本の玄関口であり貿易の中心地である横浜との間に高速大量輸送機関が必要となってきた。こうした機運の高まりと全国的な私設鉄道の敷設ラッシュを背景に様々な京浜間連絡の私設鉄道の計画が相次いだ。そのため、内務省は神奈川県に対して、それらの計画を一本化するように指導し、1898年2月25日、資本金9万8000円、立川勇次郎を専務取締役として「大師電気鉄道」は発足した。京浜間の路線を計画したにも関わらず、なぜ「大師」という名前にしたのか。それは京浜間を高速で結ぶ上で将来有望だった電気鉄道の導入に際して、当時は電気鉄道が京都と名古屋でしか走っておらず、「電気鉄道は電気を使って人間を焼き殺すのではないか」というデマが流布したほど、認知度・信頼性が非常に低かった。そのため、ひとまず、川崎と大師の間の短い距離で電気鉄道を成功させて、京浜間連絡実現を目指すということにしたからである。
建設に際しては、既に官設川崎駅前と大師の間のお客を輸送していた人力車組合「だるま組」から大きな反発が起こり、仕方なく起点を官設川崎駅から離れた六郷橋に設置し、だるま組との連絡をすることによって一見落着した。このように不便な位置からのスタートであったが、関東初の電気鉄道という物珍しさなどから、開業後は良好な成績を上げ、開業三カ月後の1899年4月24日には、当初の目的を目指して社名を「京浜電気鉄道」と改め、京浜間連絡の夢へと一歩前身したのであった。
大師電鉄の開業を伝える新聞広告
開業当時にデザインされた社紋。周囲の三本線は「川」の字を、またこれを輪にすることによって「カワサキ」を表し、「大」の字が四つで「ダイシ」を意味している。
1899年4月26日、京浜間連絡実現に向け、その第一歩として4月26日に六郷橋~品川橋および、大森支線の特許出願を申請した。11月28日に内務省より、特許が下り、1900年8月にその第一期線(官鉄大森~六郷橋)の建設に着手した。同線は原則として、全区間を併用軌道・複線としていたが、一部区間の道路幅員が狭かったので、単線とすることとなった。こうして1901年2月1日に官鉄大森停車場前から六郷橋まで開通し、大森~大師の直通列車の運行を開始した。さらなる増収を図り、川崎大師と同様に信仰を集めていた穴守稲荷へ向かう支線も計画された。同線は1901年11月に特許が下り、1902年6月28日に蒲田~穴守の穴守支線が開通した。そして大師電鉄開業時からの懸案であった官鉄川崎駅前への延伸だが、既に大師電鉄開業から3年余の月日が経ち、人力車の車夫達の中にはは大師参道に店を出す者や、転業する者が続出し、人力車も次第に姿を消していった。そのため電鉄に猛反対する勢力は皆無に等しくなり、1902年9月1日に現在の京浜川崎駅~六郷橋間を開業させる運びとなった。前述の大森線、穴守線、そして官鉄川崎までの延長線が完成したことによって、京浜電鉄の運転は川崎~大師・大森~大師・大森~穴守の3系統となった。
大師電鉄創業時から、人力車組合の猛烈な反発や日露戦争後の不況から、公式的な開業式典はずっと見送ってきたが、これらの路線網の形成や京浜間全通の見通しがついてきたので、1902年10月17日、川崎大師(平間寺)境内において盛大な開業式典を行うこととなった。しかし、前日からの暴風雨の影響により、準備していた式場は吹き荒れ、急遽、庫裡に会場を設営し直し、開業式は滞りなく執り行われたが、数百の来賓に加え、臨時雇用の男女子を合わせると1000人に及ぶ人数のため場内は身動きもできないほどの雑踏だったと言われている。
大師電鉄開業時から、京浜間全通までの主力として活躍した四輪車。当時は青とクリームのツートンカラーであった。
現在でこそ、電車の電気は電力会社より購入して得ているが、大師電鉄開業時は電気そのものが一般に普及しておらず、自前で発電する必要性があった。そのため開業に際して、六郷川河畔の久根崎に火力発電所を建設した。そこで、その余りの電力を沿線周辺の川崎町一帯に供給しようと計画し、電燈供給事業の兼業出願をなしたのは1899年1月13日である。しかし、4月に社名を変更したことと、書類に不備があったことなどから一旦撤回し、7月20日に再び出願した。8月18日に認可を得て、1901年8月24日から、大森町内43戸、163燈で営業を開始した。川崎町、大師河原村については、工事の着工を保留した。というのも、大師河原の一帯はようやく、あんどんからランプに替わったばかりで、新たに電気を引き込むのは考えにくかったからである。
1901年3月30日に、終点を品川橋から官鉄品川停車場に変更するため、再度特許を出願したのだったが、東京市内でも市街電気鉄道敷設をめぐっての調整等から東京市からの特許が得られず、同年9月にこの申請を取り下げ、東京市と荏原郡の境界だった品川鉄橋(八ツ山橋)までに変更して再提出した。さらに、1902年の5月に請願線の全線を専用軌道で敷設することの変更届を出して同年11月29日に認可が下りた。先述のように、京浜電鉄の線路は東京市の一歩手前で、足止めをくらってしまい、市内中心への延伸構想を持っていた京浜電鉄は、市内を運行していた東京電車鉄道との直通運転についての交渉を進め、1903年4月19日にはその具体化のために、内務省に「速力および車両構造変更ならびに軌間縮小」の許可願を提出した。なお、速力は最高時速を約80キロへアップさせる計画であったが、認められず約13キロのままであった。車両構造の変更は同年8月1日に許可を得て、1904年の9月に日本で初めてのボギー車1号型が竣工した。同車は76人乗りの大型車で従来の42人乗りの四輪単車と比べれば、破格の大型車であったことがわかる。軌間の変更については1904年3月1日に、既存線を従来の1435mm軌間から東京電車鉄道と同じ1372mmへの改軌が竣工した。こうして東京電車鉄道との直通などの整備を整えた京浜電鉄だったのだが、軌道法制および当局の認可基準とは適合せず、高速運転と共に、直通運転は懸案として後年に持ち越されることになる。
そうした間に、品川延長線の工事は進み、1904年5月8日に品川~大森海岸間が営業を開始した。品川停留所は、荏原郡品川町北端の八ツ山際にあり、八ツ山停留所と呼ばれ、京浜電気鉄道の東京側のターミナルとしてこの先20年機能することになる。品川開業後は、品川・大森地区での短距離客が増加し、開業前と比べると月平均約5割もの増加であった。
1号型ボギー車
品川延長線が完成したため、引き続き京浜間連絡実現に向け、川崎~神奈川の延長線の建設工事に取り掛かることにした。品川延長線と同じく、全線を専用軌道での建設にすることにしたが、これは1903年頃からの会社の今後の方針として「京浜本線は全線新設軌道、複線の高速電気鉄道システムにすること」というものがあったからである。京浜インターアーバン(interurban)構想である。インターアーバンとは、20世紀を迎える頃、アメリカで急速に発達していた電気鉄道のタイプで、言葉の通り都市と都市を結ぶ路線である。具体的には都市部は路面上を走り、郊外は専用軌道上を高速で走り、高い利便性・速達性を提供することを可能にしたものであった。元々の、大師電鉄創業時からの方針そのものであるのだが、当時は軌道法制や当局の理解を得ることができず、しばらくは旧来の路面電車のような形態をとっていたわけである。しかし、時局の流れと共に「一部軌道であれば良い」と、当局も理解を示し始めたので、品川・神奈川延長線は専用軌道での建設することになった。神奈川線の建設は鶴見川の架橋をはじめとした難工事であったが、1905年の12月17日に全線の工事が竣工した。さらに、品川~神奈川間の直通運転をはかるため、六郷橋停留所の線路配置を変更し、川崎停留所へ至る線路を新たに敷設した。いよいよ創立以来の懸案である京浜間連絡が達成されるときがきたのである。